オナアキは淫夢を革新している
オナアキは淫夢に新しいステージをもたらしている。なぜそう言えるか。淫夢においては射精するものとしての男性器に注目されることがなかったからだ。このことについて順に語っていきたい。
そもそも淫夢とはなんなのか。筆者は、「男性がメス化しているのを見て笑う」ことが淫夢の核心と思う。メス化とは、男性が肛門に男性器を含む異物を挿入され一喜一憂している様子を指す。淫夢が面白いのはセックスがそもそも面白いからだという意見があるが筆者はそれを間違いと思う。男性が肛門に何か挿入されるという異常事態が面白いのである。具体例として、アナ変やフリーザブームが印象的であるが、野獣先輩や拓也もメス化を笑っていたのではないかと筆者は思う。このメス化に対して、自分の男性器を誇示してチンポコダンスを踊るオナアキが革新的だと言いたいのである。
淫夢とメス化について、具体例として野獣先輩と拓也を考えながら説明を加える。まず野獣先輩から。
野獣先輩の有名な顔はツートップはおそらくイキスギている顔とやりますねえの顔である。筆者はイキスギを理解不能性、やりますねえを理解可能性と位置付ける。イキスギとは遠野に掘られて性的に絶頂する顔であって、これは一般淫夢動画視聴者のノンケ男性には理解不能な顔なのだ。一方やりますねえとはなにか。これは、野獣先輩には彼女がいたことがあるという事実を受けた後に、オナニーをすると宣言した時の顔である。この野獣先輩はノンケにとって理解可能な顔なのだ。野獣先輩新説シリーズにこのインタビューシーンが使われるのは偶然ではない。イキスギという理解不能な現象に対して説明を与えるのが新説シリーズであり、ノンケ男性との一致を示すインタビューはこの説明にピッタリなのだ。
野獣先輩にはもう一つの顔がある。それは苦悶先輩である。これは遠野を掘っている時の顔だが、ここには普段は隠蔽されている疑問がある。それは、野獣が遠野に薬を盛ってまでレ◯プしているにもかかわらず、いざセックスに漕ぎ着けたら苦悶の表情を見せ、コメントで応援される始末であるということだ。これはイキスギ発言と対照的だ。つまり野獣にとっては本当は掘られる側こそが性的絶頂への道なのである。BB劇場などで、野獣は遠野をレ◯プしようとすることがあるが、この「する」のもつ積極性は掘る側としてのものであるので、劇場は野獣の本質を捉えたものではなく、やりますねえと同じ種類の、野獣先輩をノンケにとって理解可能なものとするための加工なのである。苦悶への応援もこれと同じことである。 こう考えると野獣先輩女の子説がなぜ存在するかわかる。すなわち、男が掘られる側を好むということはノンケ男性には理解できないので、女の子であるということにする理解の方法なのである。 結論として、淫夢史における野獣時代とはメス化した男性を男性として受け入れられず、それではどう理解すればよいかを模索する時代と言える。
これに対して拓也は事情が異なる。拓也表記はKBTITではなく、主に怪文書について考えるための表記である。そして文章内で拓也はウリ専の男娼であって、最初から男なのである。そしてそれを男のまま受け入れたのが拓也時代の革新である。拓也はメス化などと言わなくても、文章からウケであることがわかる。有名な生か殺の拓也は、クリスマスイブに本命と過ごせない女の子への共感から始まって、まさに女の子みたいにクリスマスの東京タワーの噂を信じるが、センパイに無視される。そして、自分が真実の愛をもらえる本命くんではなくただのペット、性奴隷でしかないことを嘆くのだ。この表現が適すかどうかは分からないが、ほとんど女性のような思考をしている拓也が描かれている。しかし、それでも拓也はゲイの男娼なのだ。ウケであってかつ男であることが淫夢として受け入れられている、理解可能なものと扱われているのが画期的なのである。ウリクルの拓也は、自分が射精するのではなく、20人以上30人以下の男性達が射精するための道具としての自分を描いている。そんな彼を激エロのモロホストとみなす、男性と考える淫夢の流れが確かにあった、 しかしこの流れは続かない。拓也の小説の二次創作はAIが中心となるが、いかに奇想天外な展開を作るか、いかに汚く派手な展開を作るかに焦点が置かれた感がある。これは今流行っているらしい動画生成AIにも言える。ただのわけのわからない奇行をする男性として拓也を描いている。汚いものと扱って、拓也を否認している。こんなものはXに本人が降臨するとか無関係に廃れて当然だったのだ。替え歌拓也の流れも基本的に同じで、拓也への悪口を歌詞の中心に置きゲイの男娼としての拓也を否認するものだ。結局のところメス化男性を笑うものとしての淫夢と優れた文体をもつ拓也さんのエロ小説は相性が悪かったのである。
野獣先輩も拓也も、事情は少し異なるが男性のメス的要素をネタにしていたことを説明できたと思う。細々と続いている島田部長や現場監督もここに入ると思うが長くなるので書かない。またひでについては筆者は明るくないので書けない。少しだけ書くと、「男のくせに」いじめられて痛そうにしているというところが核になるような気がする。
さて問題のオナアキであるが、彼は自分がオナニーしている様子を見せつけるというかなり画期的なことをしている。野獣も拓也もセックスが話題の中心だったのに対して彼はオナニーをしているし、男性器を刺激することに重要性があることも画期的である。彼にとっての性的絶頂の核心は射精にあるのであって、掘られることにあるのではない。もっとも、はぅーやヒィンと言いながら異物を挿入するシーンはあり、そこにこそオナアキのもたらす笑いがあるという人もいるかもしれないが、チンポコダンスの衝撃を抜きにオナアキは語れない。男性器のおかしさを笑う淫夢が生まれているのである。確かに拓也もデカマラとして男性器を話題にすることはあった。しかし彼にとってのデカマラの意味の中心とは挿入されるものとしての男性器であった。しかしオナアキは、自身に快楽をもたらすものとしての自分の男性器を強調していて、それに淫夢厨が笑っているのだ。オナニーしているオナアキを笑うのは、オナニーしている淫夢厨自身を笑うことに限りなく近づいていて、理解不能なものとしてのメス化男性を笑うことと全く異なっている。ここがオナアキのもたらしている革新であると筆者は思う。そしてそれは、拓也さんのピリオドへの受け止めや、昨今の淫夢厨の淫夢の人権侵害性の強調と無関係ではないと思うのだ。
田所浩司容疑者ブームやインタビュアーブームもこの流れと共通するものがあるかもしれない。掘られる男性を笑うものとしての淫夢からは一線を画している。インタビューとは相手を理解しようとする行為である。
最後に、淫夢は演技が変なのが面白いんだという意見を批判して締めに繋ごうと思う。そもそも淫夢はAVであるが、ノンケ向けAVを見るとき演技の上手さを求めているのかという話である。そして、ノンケAVにおいて演技が下手でも大して笑わない、というか、肝心なのは女優さんが視覚的にエロいかどうかであって、演技は感じていたり喘いでいる演技がうまければそれでいいのである。それをことさらに淫夢においては演技の下手さを強調する。これは、ノンケ男性視点から映像作品の完成度を演技の上手さに求めてしまっていて、ゲイの男性がエロいと思うかどうかには関心がないところにあるのではないか。そして演技の下手さによって淫夢を笑えるものと考えること自体が、ゲイの視点の否認そのものであって、それが同性愛差別なのである。そして理解不能なものとしての同性愛者のウケ男性の映像を切り抜いて、ノンケにとって理解可能なものに、あるいは笑いものとして作り変えてしまうのが淫夢動画制作なのである。
この文章は淫夢解説の見かけをとった淫夢は同性愛差別だという主張を行うものでありながら、野獣からオナアキへの流れを通して、同性愛差別は良くないという思考が淫夢厨にも広がりつつあるのではないかとの仮説を示したものでもある。
替え歌拓也と誹謗中傷、淫夢と罪悪感
淫夢に存在する、替え歌拓也という謎のジャンル。それら動画群のうちの一つである、55%兄貴の投稿したクサイコホールには、誹謗中傷を嫌ったり諌めたりするようなコメントが沢山ある。それらコメントをする人たちは雄膣騎士団と呼ばれ、特に気にしない人々からネタにされている。筆者は淫夢に倫理感求めてもしょうがないと思ってる派なので彼らの言い分はどうでもいいのだが、なんでこういう人たちが現れるのかは気になるので考えることを書きとめておく。
替え歌拓也の素材の一つである拓也の評判の動画は基本拓也の悪口だ。クサイコホールはdeco27のラビットホールの替え歌で、歌詞を拓也の評判とその改変で作っているのだから、全部誹謗中傷なのは当たり前だ。ここで引用だからセーフとか言ってもごまかせないということを指摘しておき、逃げ場をあらかじめ無くしておく。なぜセーフとか誤魔化したくなるのかはそれはまたあとで話すとして、ともかくクサイコホールはラビットホールと悪口のかけ合わせだと言える。
ラビットホールはいかにもz世代のガキ向けって言葉がよく似合うような、短いイントロに性的なフレーズ多様の早口の歌詞に派手なメロディに転調にと盛りだくさんだ。これらz世代を飽きさせないための工夫が拓也さんへの悪口に重ねられているのだから、悪口の効果も強く感じられてくるのは納得と言える。同じように拓也の評判だけで作られたつくペン兄貴のウリ専時代のゆっくりしたテンポと比較するとわかりやすい。
ついでにもう一つ比較したい替え歌がタラバ記念日兄貴のバリタチの日にである。こちらは全編拓也の評判ではないのだが、曲の最も盛り上がる部分に特に集中して、めたんの美声とともに悪口が詰め込まれている。悪口が強い言葉であることを利用し、他の部分との対照で印象を刻み付けてくるテクニカルな歌詞の作り方である。一方クサイコホールは全部悪口だから、歌詞が全部強い。とにかく飽きさせない作りはアニソンの音圧戦争を連想させてくるほどだ。
これら分析は別に55%兄貴の替え歌を批判したいとかの意図はない。彼のめたんを使った替え歌1号の拓よ、こいでも悪口ばっかりみたいな文句は多かったがクサイコホールほど盛り上がることはなかった。その原因を考えてみたいと思っただけである。
そもそも替え拓は拓也の評判からの引用が少なければいいのかというと別にそんなことはないのである。ホモビを無断切り貼りして人権を奪っている時点で悪性は誤魔化しきれないのだから、視聴者が個人として面白いと思うかどうかだけで評価しとけばいいと私は思う。
話を発展させるために、拓也の評判の引用や改変が少ない替え歌はどうなっているのかをちょっと見てみる。先に挙げたタラバ兄貴のバリタチの日には、ラストに視聴者が拓也さんで童貞を卒業するというオチを持ってきてストーリー性を生んでいる。しかしこれは変わり種で、大抵の場合拓也はエロい売り専であるといって締めたり、拓也は揉むことが好きを引用したり、淫夢の未来を担う存在と持ち上げたり、生か殺の東京タワーのシーンで終えたりする印象だ。これら全てに共通するのは動画の終わりを悪口にしないことであり、さらには拓也を持ち上げさえしているのである。これは別に拓也には悪口をぶつけるべきと言いたい訳では無い。どうせ淫夢なんてゴミ溜めなんだから好きにすればいいというスタンスは変わらない。ならばなぜこんなことを書いたかと言うと、替え拓動画の中には、悪口を言った罪悪感を軽減する仕組みが内蔵されているパターンがあると指摘したいのである。
悪口を言うことは人に罪悪感を生ませる。だから悪口が含まれた動画にはその罪悪感を消すための工夫が盛り込まれている。具体例として、替え歌拓也ではないのだが同じ歌系として、やじゅまん兄貴が投稿したAI生成の歌、俺の人権を返せを思い出してほしい。これは辛そうな野獣先輩が自分の人権を返すように訴える歌である。これに視聴者は、本来罪悪感を抱くはずなのである。だからこそ、無いものは返せないとかホモビに出たのが悪いとかの無理のある正当化コメントが現れてくる。そして、この罪悪感を解除する仕組みがこの動画の最後にも内蔵されている。最後にバンドを組んでいた複数の野獣先輩たちがそれぞれに自分が一番だと言い張り、仲間割れをして終わるのだ。これによって、野獣先輩とはしょせんこの程度のやつらなのだから人権を奪われて当然という意識に視聴者の心を戻し、安心して次の人権侵害へと移れるようになっているのである。私はこのシーンを、AI使用という人権侵害によって野獣先輩の人権を訴えるという動画の面白さを損なうものとして蛇足と思うし、だからこそやじゅまん兄貴はこのシーンを計算して入れたんじゃないかと訝しんでいるのだが、それはともかく、人権侵害度合いが高い動画は視聴体験が悪くなるからそれを緩和する内容が含まれているということの例証になっていると思う。
この動画の仲間はクッキー☆のAI宇月である。「私で遊んでくれてありがとう」という最強のフレーズを含むこの動画も、バランスのために「おまえのこと絶対許さない」が直後に入っていて、動画の最後はUDKがパソコンに向かって「おい!」と言って怒ることで、人権侵害に対して怒られて終わるという形で区切りを作っている。
まとめると、動画が人権侵害を強く意識させる内容であるときには、視聴者が怒られるなり、いいところも言ったり、人権侵害された側が侵害されるにふさわしい理由を持っていると明らかに分かるようになっているなど、視聴者の道徳心のバランスを取るようにしていることが多いのである。
最初に替え歌の歌詞を拓也の評判で埋め尽くしたウリ専時代も、語録の「もう許せるぞおい!」が入っていて、拓也に怒られるという形で終わっていた。だが、クサイコホールはそうなっておらず、歌い上げた四国めたんの満足げな顔で終わる。言い訳のない完全な誹謗中傷を実現したのが55%兄貴の替え歌拓也の革新性だと思われる。
迫真文学部 聖典解釈の裏技 あるいは、一転攻勢とはなにか
淫夢とキリスト教は似ている。キリスト教は聖書から「狭き門から入れ」や「カエサルのものはカエサルに」など、様々な言葉を引用し、それらを解釈しながら営まれるのであるが、淫夢もまた、ほんへから様々なBBを切り出してきて新たな動画へと再編集することで営まれている。よって淫夢=キリスト教、証明終了、といきたいところなのだが、実は淫夢とキリスト教には無視できない差異もある。キリスト教において聖書は全体が神からの救いのメッセージ=福音を示すものであるから、聖書それ自体を読み解釈するということがどうしてもなされなければならないのであるが、淫夢においてそれは全くと言っていいほど行われていないのである。ならば、淫夢においても、ホモビ男優からの救いのメッセージを受け取るために、誰かがほんへ解釈という作業をやらねばならないのではないだろうか。
この危機意識は、私が、啓示により、「一転攻勢」こそがメッセージの中心であるという御言葉をたまわったことに由来する。しかし、GOはそれ以上の意味を私に教えてはくださらなかったのだ。ならば、私は自分の力によってそれを探し出さねばならないと決意した。そこで、淫夢ほんへを、切れ切れの断片と化したおもちゃとしてではなく、敢えて全体として、物語を持ったものとしてとらえることによって、その意味を取り出すという試みをここに行うと宣言する。それはすべての始まりである一章から始めるのが適切であろう。読者の方々も、せひこの営みに参加し、各々の救いの道へと歩みだして欲しい。はい、よーいスタート。もう始まってる!!
最初は簡単な問いから始める。物語には読者が自己投影を行う人物がいることが多いが、一章においてそれは誰であろうか。
私はそれをTNOKであると考える。なぜかといえば、タイトルの「極道脅迫」というフレーズは、極道が野球部に無理やり何かをさせる物語だと予感させているからだ。まずタイトルを見た視聴者は、極道TNOKが何をするのかに注目して見始めることになる。
ここから物語の読み解きを始める。冒頭シーンはあまりに有名な、疲れからか黒塗りの高級車に追突してしまう場面だ。実はここは後の展開の先取りとなっている。運転中に前の車にぶつけてしまうことを「オカマを掘る」と表現することが、昔はあった(人権感覚の進んだ今は分からないが)。この表現は淫夢の現物ビデオの発売当初は現役だったであろうと思われる。TDNも現役だった。ともあれ、この場面は物語のきっかけを作るとともに、この比喩表現を通して視聴者に、野球部員が極道を掘る展開になることをあらかじめ示しているのである。
ここで読者には疑問が生まれたことと思う。最初にTNOKを視点人物に設定したのに、なぜ彼を掘られる側として読者に示すのかと。ここには、淫夢のほんへを意味不明なものと感じさせてしまう勘違いの根源が含まれている。
断言してしまうが、TNOKの願望は、本当は掘られることなのである。いわゆるウケである。なぜこう判断するか、理由を示す。
淫夢で最近のタクヤに触れたことがある人ならご存知の通り、タクヤはバリウケである。そのタクヤの動画でたまに、ゲイにおけるタチ、リバ、ウケの割合を表す円グラフが登場する。このグラフにおいて、最も面積が広いのはウケ、最も少ないのはタチなのである。しかもその差は微差ではなく、大きく開いている。ノンケが女を犯すことの延長でホモも男を犯したがっているのだと考えると、読解の方向性を見誤ってしまうのだ。
さて、それならば、淫夢というホモビにおいて、多くの視聴者はウケ視点から鑑賞していると想定するのが妥当ではないだろうか。視聴者はウケがタチとどう絡むのか、どんなふうに犯されるのかを予想しながら見るのである。視聴者の願望を代行する登場人物のTNOKがウケであると考える根拠はここにある。
では、そのウケ願望を満たすためにはどうするかというのが、これまた有名な犬の真似シーンの意味である。車をぶつけた落とし前として、TNOKがTDNに犬の真似をさせるシーン。一見気の抜けるようなコメディ的シーンではあるのだが、本当は、ここにも、なぜ犬でなければならないかという理由が明確に存在している。
真似をさせるという行為は命令であるから、まずは自身の力の誇示としての意味を読みとれるだろう。しかしそれだけだと、真似の対象はネコだろうがサルだろうが何でもよいということになってしまう。現実には、この場面では犬が選ばれた。これには、確かな理由があるのだ。それは、犬が躾けられて学習をする生き物であるということである。
TNOKには犬にしたTDN達野球部一行に対して、学習してほしいことがあるのだ。それは何か。それは、TNOKのホモ的性質である。ここも分かりにくいと思うので、以下丁寧に説明を書く。
TDNはホモビに出たのだからホモであり、役の上でもホモだ。ゆえに、ほんへの中でその彼にホモを学ばせる必要はないのではないか。そう思いこんでいる人が多数と思う。だがそれは違う。TDNが実際にホモかどうかは分からないし、かつその演技が真に迫れていると感じるかどうかは視聴者次第だが、このほんへでは、ノンケの役が確実に求められている。何故か。ノンケ男性はホモの好みであるからだ。これも説明を入れる。
ホモが性的に好きなのは男性である。ではどのような男性が好きなのか。前提として、ここでの説明はあくまでその傾向を持つ人が多くいるというだけの話であり、全てのホモがそうであるということは到底言えないことはあらかじめ述べる。その上で、ノンケが好きなホモというのが数多くいるのである。もちろん、ホモはノンケが好きだからと言ってノンケを現実にレイプしたいと思っているかと言えばそんなことは絶対にないということを当然言っておかなければならないし、読者にもこのことを十分理解しておいてほしい。さて、なぜノンケが好きかというと、ホモは男を好んでいて、ノンケは男らしい男、女から好かれる要素としての男らしさを備えているからだ。女が好きなタイプの男とホモが好きなタイプの男は重なっているのである。タクヤの評判動画に、女みたいにアンアン鳴くという表現があったのを思い出すと納得しやすいだろうか。ホモの女嫌いは自分達と似た存在であることに由来していると考えるとどこかしっくり来るところがあるが、実際のところは分からない。
さて、このビデオにおいて視聴者が感情移入するのはTNOKだと最初に言った。そして、その欲望が向けられるのはTDN一行である。彼らは若く、野球をしていて健康的、スポーティな体つきをしているだろう。しかも偶然出会った男たちなのだからノンケである。そんなすてきな子達を自分が手籠めにできたらどれだけいいだろうというのが、一章の裏に流れている欲望の物語なのだ。一章はこの願望の投影先なのだから、TDNは少なくとも役の上ではノンケであることが求められていると考えるに十分な理由がある。
しかし、この欲望の物語には足りない部分がある。それは、ノンケはホモではないため、ホモの自分と交わってはくれないということである。ならばどうすればよいだろうか。ノンケをホモにしてしまえばいいのである。TNOKがTDNを犬にする理由がここに示されている。すなわち、TNOKはTDNを犬という学習能力が高く従順な存在にすることで、自分好みのホモにしようとしているといえる。TNOKは犬が好きなのではなく、ノンケを変化させたホモが好きなのだ。
TNOKはここからTDN達に様々な指示を出し、それを見守る役が中心になる。そして、最初強かった存在感は次第に薄くなっていく。ここに違和感を覚えた淫夢厨は多いのだろうが、実はこの存在感の変化は当たり前なのだ。ノンケである野球部員たちをホモに目覚めさせるには、丁寧な指導と時間、そして自発的訓練が必要だ。TNOKはその完了を今か今かと待っている。その気分が「あくしろよ」なのだ。
少し本筋から離れるが、TDNはあのすっぱ抜かれた雑誌で見せている印象的なシーンにおいて、辛そうな顔をしているように見える。あれはノンケであることの証明のためにわざと辛そうな顔の演技を見せているのだ。なぜならばノンケであればホモに体をいじられるのは(最初は)嫌なはずであるから。ホモビ鑑賞者のホモは男優が本当にノンケであるということに対してこだわりがあり、それはノンケがAV女優の感じている演技が本物かどうかこだわるのと同程度だという。
そしてついに目覚めの時が来る。TNOKが射精し精子をかけると、かの有名な場面が訪れる。「一転攻勢」である。拳銃を向けられ、さっきまでの主従関係とは逆に、主導権を握ったTDN達野球部員が極道のTNOKを襲い始める。これは一目には乱暴された野球部員達の復讐のように見えるが、実のところ、裏の意味ではそうではないのだ。この逆襲は最初からTNOKが意図したことであり、狙い通りのことが起こっているのである。本来ウケであるはずのTNOKが指導のためにタチを実演し射精によってそれを完了することで、犬であるTDNたち野球部員はタチとしての振る舞いの学習を完了するのである。
ここまでの流れをノンケコンテンツにたとえるなら、敢えて単純化すると流行りのメスガキに似ていると言えるのではなかろうか。メスガキとは、敢えて挑発することによって男を性的に盛り上げ、自分が犯される方向へと導く存在だ。また、レ◯プの快楽墜ちも似ているかもしれない。暴力で無理やり犯して快楽によって「教育」し、最後は女が自分から腰を振るようになるという筋書き。このほんへにはそれらに似た欲望の構造が働いている。
結果TNOKは野球部員達に凌辱され、最後は拳銃が放たれるシーンで終わる。これはTNOKが殺されてしまったというよりは、生死という自分の身体コントロールを完全に奪われる程にまで、TNOKのウケ願望が徹底的に達成されたことの表現であると読むべきであろう。
まとめると、淫夢一章の物語とは、ウケ的欲望、主導権を握りながらも相手に身を任せてしまいたいという性的欲望の表現の一形態であると言えよう。
おまけ的になるが、ここで示した読解と同じ方法で、4章も読解できるということを軽く示す。まずノンケの遠野がホモの田所によって野獣邸、ホモの巣に誘い込まれる。屋上というホモとノンケの境界においてノンケがホモに変えられる儀式が始まる。そこで遠野はオイル=疑似精液をまぶされるが、それだけではまだホモにはなっていない。これもう分かんねえくらい焼けてしまっている=完全なホモの田所と、すっげぇ白くなってる=まだホモでない遠野の対比がそのことをよく示す。疑似精液でなく本物の精液をかけられなければ遠野はホモにならないのだ。そこで遠野は地下室=深層意識=隠された欲望の場に連れて行かれ、特殊な薬の服用の後、田所に精液をかけられる。苦悶先輩とは、遠野をホモにするための田所の必死の努力の表れである。そして、これまでの喘ぎ声とは人が変わったように高くなった喘ぎ声、すなわち世界のトオノとは、遠野がホモに目覚めたことを示す合図なのだ。最終的にホモの田所は元ノンケの遠野に掘られるという本懐を果たし、キスによってそれが確かなものであると視聴者に示され物語は終わる。
同様に空手部等他のほんへも読解できるのだが、そこまでやってしまうと読者の楽しみを奪うことになりかねない。ので、それらは読者がそこからそれぞれの淫夢の道を見出すための足がかりとして残しておこうと思う。ここまで楽しんでいただけていたなら幸いだ。文系の学問は役に立たないなどと言われることもあるが、本当はこんなにも役に立つ。これだけはどうしても真実を伝えたかった。
注
ホモという表現は同性愛者に対する蔑称であるが、ここでは淫夢厨の慣習に沿ってこの表記を用いた。すべての当事者の方々に対してお詫び申し上げる。筆者は異性愛者男性であり当事者を完全に理解することができないという自覚がある。間違い等あれば指摘してほしい。
参考文献
『性欲の科学』 CCCメディアハウス
オギ·オーガス、サイ·ガダム著
坂東智子訳
第7章 ストレートの男と違うところは3つだけ を中心に参考にした。
的場梨沙さん
おめでとうございます。いい意味で予想を裏切られました。
自分の思いを信じて努力して来たことがいつか叶えられるという物語は美しいものです。感無量です。ライブの盛り上がりの核はこの物語によっているのでしょう。願わくばこの物語が語り継がれますように。
救われるべきは夢見りあむではなくてPの魂だと思う、という話
お久しぶりです。夢見りあむSSRがデレステに実装されましたね。[夢見りあむは救われたい]。そのコミュでなんと総選挙当時巻き起こっていたお気持ち表明に言及されていました。それで懐かしくなり、もう一度あのあたりの時期にあったことを振り返ろうと思いましたので、筆を取りました。
とりあえず、私なりに重要だった出来事をピックアップして並べてみます。
(シンデレラ初ドーム公演発表)
2018年7月19日 恒常SSR2週目実装開始
8月31日 ガルフロイベント開始
11月10日 メラド1日目
12月2日 ナゴド2日目 新アイドル実装予告
2019年2月7日 夢見りあむ モバマス実装
2月28日 VelvetRose イベント開始
私はガルフロが運営の方針を示す曲だと考えているので、ガルフロを軸に整理しました。
ガルフロは「自分の足で歩けシンデレラ」が話題にあげられがちですが、他に、デレステにコールありバージョンが追加された初楽曲だということを見逃せません。ドームで披露することがほとんど前提になっていることが分かります。この頃運営は、ドーム公演決定を受け、収益をガシャとライブの二本立てにすることを本格的に決めたのだと私は想像しています。デレラジなどで「ライブで披露するなら」形式のコメントが増え始めたのはここからではないかという印象があります。さてそこで運営は全体の方針も変化させたのでしょうが、その中に「恒常2週目」も含まれていたと考えられます。ドーム公演が可能になるほどライブ人気が高まり、今後ライブを中心に据えるとなると、どうしてもボイスのあるアイドルを推していかなければならないからです。恒常2週目としてほどなく追加されたインディビと羽衣小町の楽曲がライブでフューチャーされ盛り上がっていたこともこれを裏付けています。運営は恒常2週目はライブとの相乗効果で収益をあげられると思っていたことでしょう。
ところがこの方針はPからの評判が芳しくなかったわけです。「自分の足で歩け」で運営が意図した真意はなんとも言えませんが、運営がPの意向を無視していくと読まれてしまい、この時期と恒常2週目が重なった結果、①アイドルマスターのPとアイドルが紡いでいく物語という側面を無視する②運営主導で声ありアイドルを積極的に優遇する という、古参で箱押しのPには受け入れられないようなメッセージが運営から発されてしまいました。
そこに、新アイドルがやってきます。新アイドルはドームで発表された以上、ガルフロ時点で運営の方針に入っていたでしょう。ボイスありと無しの差がどこから来たのかはわからないのですが、当時は全員ボイス無しなら容認の空気があったことは書いておきます。しかしそれを嘲笑うかのようにVelvetRoseはボイスつきで登場し、アイドルのPへの態度も話題になりましたし、運営からPへの押し付け的メッセージとしか読めない部分があるコミュなど、もはやPの希望など聞かず運営の方針こそがシンデレラガールズを作るんだと言わんばかりでした。もはや運営はPの希望に沿ったものを作る気は毛頭ないのだろうという確信に近い諦念が支配し、新アイドルへの悪意ともなりつつ広まっていました。
そんなこんなあっても、総選挙は開催され、それなりの盛り上がりを見せていたのですが、中間発表夢見りあむ3位が待ち構えていました。夢見りあむは登場から話題を一気に持っていっていたのですが、その勢いを総選挙でも発揮したわけです。この「夢見りあむ3位」が、Pの感情を引っ掻き回した結果、当ブログを含むお気持ち怪文書たちが生まれたのです。やっと本題で言いたかった、夢見りあむがなぜお気持ちを量産させたかに入れます。
夢見りあむに物語がないということが当時言われていました。当ブログの記事でも述べたように、夢見りあむも、シンデレラガールズと関わっていく物語は生まれるので、この主張は間違いです。ならこの主張を完全に無視していいかというとそうではなく、この「物語」を「歴史」に変えて考え直してはどうかと思っています。アイドルにとっての「歴史」とは、Pと積み上げたものです。夢見りあむは当時登場したばかりで、積み上げたものなどほとんどありません。そんなアイドルなのに総選挙3位になれてしまうということは、アイドルのいわば地力を発揮する場である総選挙の票は、アイドルとPの紡いできた歴史の重みや必死の努力ではなく、話題性だけで得られてしまうことが暴露されてしまったのです。運営からPの希望は無視しますというメッセージを受け取りつつも、唯一
運営もおそらく無視できないものとして総選挙をアイドルと共に戦ってきたPたちには、この事実を直視できない者が現れても不思議はないでしょう。Pの今までの活動やアイドルと紡いだ物語としての歴史が、運営ばかりでなく、Pの努力がものを言うと信じられてきた総選挙ですら意味の薄いものなどだと突きつけられたとき、PのPとしてのアイデンティティーは完全に崩壊します。そこで、自分のアイデンティティを守るため、言い換えれば魂を救うために、夢見りあむはシンデレラガールズのアイドルにふさわしくない、とか、投票する人間はおかしい、という主張がなされ、跳梁跋扈するようになった、と考えてよいと思っています。無論、それ以前から堆積していた総選挙への不満も混じりあい、むしろ夢見りあむに希望を見いだしたり、Pと呼ばれる人たちの軽薄さを冷たい目で見ていた人たちの思いなどさまざまな怪文書が表れましたが、これらをお持ち表明発表の大きな流れからの派生と見ても間違いにはならないと考えています。
ここまで時系列を入れつつ当時起こっていたことの説明を試みてみました。最後にファミ通のデレステ特集の話とか今後のデレステの話とかちょっと書いて締めます。
ファミ通過デレステ4周年特集のアンケートの楽曲関連でガルフロが結構ランクインしてました。ガルフロから運営のメッセージを読みとったりしてたのは実は一部熱心なPだけだったのでしょうか。もしくは全部承知のうえで曲の格好よさから投票したのでしょうか。真偽は分かりませんが、ライブが人気だということは傍証されてると思います。まつえりのパフォーマンスも話題になってたし。後は久川姉妹人気も見られました。私はたまに、VelvetRoseより久川姉妹を先に出していたらどうなっていただろうと思っています。
今後のデレステの話。恒常2週目の流れは緩やかになり、結構な頻度でボイス無しアイドル2枚同時実装も行われています。新しいイベント形式でもボイス無しアイドルの出番が与えられています。このことから、運営の方針はガルフロ当時からは変わっただろうな、と思っています。ただ選挙以外から声がつくかつかないの話はなんとも言えません。運営がライブを視野に入れながら進めていることはもはや明らかですが、そうなるとアイドルにボイスをつけるのにも、ドームライブに立てて歌って踊って演技ができて小話もできてエモ話もできる、というハイスペック声優さんを要求され、この条件を満たす声優さんを探すのは難しいだろうな、と思うからです。総選挙以外からのボイスは期待せず普段のP活動を盛り上げ続け総選挙につなげる他ないのかな、と思います。
今回はこれくらいで。今度は、総選挙でどうやったら票がとれるか、みたいな話をまた別の見方からできたらなあと思ってます。
記事全般に関して、反省、自己批判。
私は、夢見りあむ3位という結果を受けて、シンデレラガールズというコンテンツにどう向き合うかを自分なりに考えるために、あるいはあふれる感情を思いのまま放出するためにこのブログを始めました。このブログからも距離を取れないと不完全に終わってしまうと思ったので、反省用の記事を書きます。
最初の記事では利用可能性ヒューリスティックという考え方に触れて、シンデレラガール総選挙の投票メカニズムをある程度明確にし、アイドルの物語への過剰な信頼から離れようとしています。「このアイドルはこんなに素敵な物語を持っているのになんで票が伸びないの!」という失望や怒りを持たないようにするためです。おかげで私は安部菜々さんが最終結果で圏外でも、過剰に心を動かされずにすみました。
次の記事は、最初の記事がそれなりに読まれたのを受けて、誤解にコメントしつつ、総選挙で票を取る方法を(誰でも思い付きそうなものしかありませんが)考えてみました。この記事は、意図としては、総選挙で票を取りたいけどどうすればいいか分からない、総選挙で泣きたくない人に向けて書いています。
3番目の記事は、運営との距離について、結局コンテンツに付き合う上でユーザーは運営に従うしかないということを言いたくて書いています。これは、最近は運営の動向にショックを受けてシンデレラガールズというコンテンツから離れてしまう人が出ていることを念頭に、運営はユーザーの願い通りに動いてはくれないと示して、ショックを受けてしまう人を減らしたいと思ったことがきっかけです。
4番目の記事は補足的で、特に言うことはないです。
5番目の記事は、総選挙の結果が出たあと、自分が、主にツイッターで見聞きした言葉に対して考えたことを書いています。的場梨沙さんへの言及が多いのは、この結果に一番ショックを受けているのは梨沙さんのPだろうと思い、サプボへの期待が浮動票の投票を阻害しているという言葉を重く見て、このブログでもサプボはないだろうと書いておくことで次以降の投票を促し、もう一度投票メカニズムを書いておき梨沙Pさんが夢見りあむに負の感情を向けたり実際に起こっていなさそうな現象に怒りを向けるのをやめて、次に向かって欲しいと思って書いたつもりでした。
最初の記事について、趣旨を、だから総選挙はダメなんだと、物語を重視した総選挙にすべきなんだという主張だと読んでもらった人が結構いたようです。私としては、総選挙のメカニズムを考えてみることで現実を見たいという思いで書いたもので、次回総選挙への提言のつもりは特にありません(多分物語重視の総選挙でも利用可能性ヒューリスティックは働くと思うのですが、これは余談です)。全体としてこのブログの記事は、シンデレラガールズというコンテンツを冷静に見ることで距離をとり、過剰に一喜一憂することを避け、利用できるところで(楽しめるところで)利用していくことができるようにと書いています。こうなっているからこのコンテンツはダメだ、と言いたいわけではないです。
他多くあったコメントに、利用可能性ヒューリスティックの影響を過大視して、筆者は確証バイアスに陥っている、総選挙はそれだけじゃない、という意見があります。確かに私も、利用可能性ヒューリスティックの事ばかり書いているな、とか佐城雪美さんや遊佐こずえさんに触れていないのは論証として不公平だな、と思います。これを書いていた時の私は、安部菜々さんが圏外で夢見りあむさんが圏内である理由を知りたくて知りたくて、利用可能性ヒューリスティックという考え方で上手く説明できることに気付き、それを表現したくてたまらない心理状態でした。なので、利用可能性ヒューリスティックで説明できる、総選挙中に起こっていた目立つ出来事ばかり書いてあります。佐城さんや遊佐さんが票を得た理由には、それぞれのPさんたちの、ダイマ募集ツイートに地道にダイマしていく努力や、あるいは今までの高い順位からボイスに期待する人が票を入れやすかった(死票になりにくい)ことなど、様々な理由があることと思います。一方彼女らへの投票にも利用可能性ヒューリスティックが働いていた面があったとは思っており、過剰に宣伝し過ぎたことは認めますが、全体として投票行動の際に利用可能性ヒューリスティックが働く場面が多いということは十分主張できると思っています。
5番目の記事で、筆者は的場梨沙さんを貶めたいのだというようなコメントをもらいました。最初の記事でも、利用可能性ヒューリスティックを利用できていない例として的場梨沙さんを挙げており、筆者が的場梨沙さんに特別な否定的感情を持っていると思われるに足るような攻撃的文面であったことは事実でしょう。この場を借りて全ての的場梨沙Pさん達にお詫びします。的場梨沙Pさん達の努力が実を結ぶことを祈っています。
繰り返しになってしまいますが、全体としては、ここまでのブログは、シンデレラガールズというコンテンツをある程度客観的に見ることで、現実を冷静に把握し、感情的にならないようにするために書きました。シンデレラガールズというコンテンツも歴史が長くなってきて、思い入れの強いPさんも多くなっています。私も、安部菜々さんに強い思い入れを持った一人でした。この強い思い入れが転じて強い負の感情になってしまうのは悲しいことです。このブログを読んだ人に、シンデレラガールズに振り回されるのではなく、自分がシンデレラガールズを利用するのだという気持ちになって、コンテンツを楽しんでもらえるようになって欲しいと思っています。
ここまで読んで頂きありがとうございました。また何かあれば書きますが、次回更新は一応未定です。何か触れてほしいことがあったり筆者に批判したいことがあれば、コメントしておいてくだされば目を通します。
夢見りあむが見せる現実
第8回シンデレラガール総選挙の結果が発表され、P界隈で悲喜こもごもが産まれている。。このブログを書くきっかけになった夢見りあむは中間から順位を変えず3位を維持していた。少しだけ、今回の結果を見て思ったことを書いておこうと思う。
一つ。シンデレラガールズのゲームで蒸気公演というイベントがあった。近未来のディストピアを連想させる世界観の中希望を見いだそうとする人々の感動的なストーリーであり、見たことのない読者にはぜひ何らかの形で触れてほしいのだが、開催中は話題がもちきりで、メインキャストを張った岡崎泰葉と斎藤洋子の名前を一躍有名にした。しかし、彼女らの名前は50位圏内になかった。物語性が総選挙に与える影響について示唆を与えており、このブログの主張と合致した結果ではあるのだが、少しだけ悲しい。
二つ。的場梨沙について。彼女が、りあむ躍進の影で涙を飲む結果になった。サプボを望む声も多く見られた。しかし彼女にサプボはつかないと思う。U149関連でありそうという意見が多くあったが、イベントで、U149からのサプボはないと明言されたらしい(私も知らなかったのだが、今日の的場梨沙Pのツイートから知った)。ゆえにあるなら運営からの温情枠になるのでそれがどうなるかだ。去年のサプボ枠に白菊ほたるがいたが、彼女については第七回総選挙で①Cuボイス未実装アイドルの中でトップの順位だった②このときの総選挙のボイス枠がCuにはなかった③このときの総選挙でボイスが確定した日菜子や光より順位が上だった というようにかなり特殊な条件が重なっている。今回の総選挙でPaはボイス枠をりあむとナターリアで二人もらっており、CuとCoは一人ずつもらっていることも考え合わせると、属性として運営からの温情を貰うのは難しいだろう。サプボ枠はもしあっても、CuかCoのどちらかだが、3属性全てで新ボイス枠があるため、期待は薄いだろう。的場梨沙はサプボが期待されがちで浮動票を取りにくいと悩んでいるらしい。周知のため、当ブログでも、的場梨沙にサプボはないだろうと考えていることを明記しておく。
三つ。上と関連して。的場梨沙Pの方々には、夢見りあむに対し、どす黒い感情を持ってしまう方もいることと思う。しかしこの感情は、今日ぐらいは許されるとしても、今後は、界隈のイメージに繋がってしまう。シンデレラガールズと向き合い続けるには、冷めた心も必要だ。私が見た感情に、夢見りあむへの投票はおふざけや悪意で行われたもので、だからこの投票行為は許せないなどと考えてしまうというものがあった。これは、心が悲しみと行きどころのない悔しさに支配されて、冷静な判断が行えなくなった結果生まれているものだ。当ブログは、それは違うと主張する。夢見りあむへの投票の大部分はシンデレラガール総選挙に熱心だからこそ生まれたもので、悪意によるものはそれと比較するとわずかだと主張したい。以下それについて述べる。
りあむへの投票を別の界隈で過去にあった、スフィンクスやコイルや五条(以下コイルと一括して称する)と類比して考えている人がいるらしい。しかし私は、りあむへの投票とこれらの投票とは決定的に違う部分があると思う。それは、コイルへの投票は2ちゃんねるで組織だって行われたが、りあむには、中心になる指揮系統が見られなかったことだ。コイルへの投票は、掲示板の中でふざけた投票を煽る人たちがいて、また投票ツールなんかも貼られていて、簡単に大量に投票することができた。しかしりあむには、ダイマ募集しても来なかったという報告があったが、中枢組織がなかった。悪意やおふざけによる投票組織ならなおさらだ。また、コイルと違い、シンデレラガール総選挙は投票までかなり手間がかかる。コイルは、パソコンでマウスをちょっとクリックすれば大量に投票ができたが、りあむには、デレステでもレベルの制限やいくつものミッションの達成などと投票券獲得のためにやらなければならないことが多い。モバマスも新規で始めるにはハードルが高い。課金すればいいと思われるかもしれないが、おふざけで投票するような層が大量に課金するようなことは考えにくい。同様に、あまり大きな手間をかけるとも思えない。以上のことから、おふざけや悪意でりあむに投票する人間は、りあむに投票した人の割合として少ないはずだと考える。
ではなぜそんな動機を見かける機会があったのか。それは、りあむの拡散力が大きすぎて、割合が少なくても絶対数がそこそこの大きさになってしまったことと、投票について特殊な動機についつい着目して代表させてしまう認知バイアスによるのだと思われる。
別の記事でも書いたが、普段からデレステやモバマスを遊んでいる人の中に、投票先をはっきり決めながら投票券を集めている人間は多くない。そんなたくさんの人々が投票先を決めあぐねているところに、りあむがすごい勢いで拡散され浸透し、印象に残り、いざ投票となったところで、例えば(投票したい子たくさんいるけど、そういえばこの前ちょっと見たりあむって子、胸大きいし性格も面白かったな。この子に入れてやるか)というように利用可能性ヒューリスティックが働き(かなり戯画化したが)、りあむに投票した。りあむが票を集めた理由の真相は、そんなところだろう。彼らは、総選挙に無関心だったとかそういう訳ではない。むしろ、かなり関心があったり、ゲームに熱心だったりしないと投票券は集められない。しかし投票先を決めようにも、好きな顔、好きな声、好きなユニット、……、と、考えるべき要素が多すぎるのだ。少ないアイドルに熱心なPには意外かもしれないが、シンデレラガールズ総選挙の投票先を選ぶのは、原理的にかなり難しい。こんな風に決められないでいると、いつの間にか、無意識に備わった利用可能性ヒューリスティックが働き、いざというタイミングで、最も印象に残っていたアイドルに投票することになる。繰り返すが、彼らは投票先を真剣に考えているのである。考えても、原理的に、投票先選択の基準が多すぎるのが問題なのだ。
次回も総選挙を戦うならば、投票はどんな風に行われているのかについて冷めた心で観察、思考する必要がある。その時、担当への思いや複雑な感情で心が熱され過ぎていると、上手く結果が出せないかもしれないと申し上げておく。
さいごに。安部菜々さんへ。一年間お疲れさまでした。派手なダイマも出来ず、結果も残せないし、こんなブログを書いているような夢を失った私はPではないと思いますが、あなたが好きだという気持ちは変わりません。勝手な言いぐさではありますが、これからもあなたを好きでいさせて下さい。